シンプルがもたらす幸せ

輝くということ

  • 「深海に泳ぐ魚族のように自ら光らなければ何処にも光などない」
     
    これはわたしが最も尊敬する作家の大島渚さんの言葉です。
     
    人が輝くということは、他人が輝くために自ら光を放つことであり、自分が輝くための心がけは、人と自分を区別しないことに尽きると思います。
    これは、長い人生を生きて、わたしが得た最も尊い答えです。
     
    潜在意識は自分と他人の区別がつきません。だから他人の栄光を決して否定してはいけないのです。
     
    自分以外の誰かのために一生懸命になれる心を育てることは、もしかして私たち人間の生涯の課題なのかもしれません。それは、人の幸せを心から喜ぶことが自分自身が輝く唯一の方法だからです。
     
    ですが、輝きも、喜びも、他者に対する「愛」の形も人それぞれで、これが絶対に正しいという鉄則はありません。だから、難しいし、この難題を精一杯楽しめる自分にならないと。
     
    人に心を寄せて、心から誰かの幸せや成功を願える自分であり続けたいと願えば、目の前の出来事が全て学びになっていきます。
     
    日本には美しい四季があります。
     
    今の自分に何が起きていても、必ず季節は巡っているということを忘れずに、雨の日も、曇りの日も、正しい心がけをもつ自分を信じて、面白がって、心を伸ばしていきたいですね。

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わたしにとっての”美しい目”とは・・・

わたしは人と出会う時、ひと目から数分でだいたいのことはわかるつもりです。
どのような環境で生きてきたか、自分との相性は良いか、そして美しくなれる人かどうか。
それはつまり「顔つき」を見ているわけなのですが、その「顔つき」というのは言い直せばだいたい“目の美しさ(造形とかではなく)”でしょう。
その“美しい目”を形成する要素を上げるとすれば、純粋さ、自信、豊かさ、教養の4つがパッと浮かびます。
 
そのそれぞれを持つ人の顔つきは美しく、また2つ以上の要素によって輝く人もいます。
 
ところがこれらの要素の中でただひとつ、純粋さだけは他と比べて異質の要素とわたしには思えるのです。 他は後天的に身につけるものであり、ある程度「作為的」とも言える要素であるのに対し、純粋さだけはそれ自体がなんらかの「結果」としてもたらされたものだからです。
 
自信や豊かさや教養をたたえた目が“揺るがない”イメージなのに対し、純粋な目には揺るぎやすいタイプも多い。
では「純粋な目」とはどういうものなのでしょう?
わたしなりの解釈ですが、それは喜怒哀楽や好奇心が他人からよく見える目のことです。
つまりそれは磨かれた結果のものでもないし、あまりカッコいいものでもありません。
ですが、わたしは大好きなんです、この目が。
わたしが「純粋な目」で思い浮かべるのは山田洋次監督の映画『幸せの黄色いハンカチ』の高倉健さんの目です。
あの健さんの目はオドオドして落ち着かない、キレると燃え上がり、まともに見れないくらい好きな女性(倍賞千恵子)に声をかけられて喜び、奪うように身体を求めた後落ち込み、それでも自分を慕ってくれると驚き、子供を身ごもったと聞いて有頂天に輝くそんな目なんです。本当にそんな目が、美しく、最高に魅力的だと思うのです。
わたし自身は、どちれかといううと、普段から自信や教養のような“達成系”を求め、なにか成功を勝ち得て喜びを感じたいと思う方なんですが。
でもあの映画を観れば、そういう達成的な幸せと同等な幸せが他にもあるんだな、と思うのです。
健さんが「俺みたいなヤクザ者でも父親になれるんだな」と感じたその目、自分なりの幸せを見つけた時の目を見た時に結局わたしには幸せには大きく分けて2つのタイプがあるんだなと思えます。
達成によって感じる幸せと、純粋な心の人が自分なりに見つける幸せの2つが。
そしてわたしが最初に言った、初対面で分かる「美しくなれる人」は純粋な目を持った人なのだと思います。
それは人の意見を信じ、好意的に捉えられる人であると同時に、自分なりの幸せを必ず見つけられる人なのです。